NORIYOSHI OHRAI :THE ILLUSTRATOR

HOME | EXHIBITION | BIOGRAPHY | SHOP | WORKS | ACCESS | CONTACT |

BIOGRAPHY

自画像 生賴範義 
 西暦 和暦 年齢 内容
1935 昭和10年   11月17日、兵庫県明石市に生まれる。
一家は芸術家肌の父と優しく働き者の母、二人の兄、姉、妹の五人きょうだい。
1945 昭和20年 10歳 明石の大空襲に遭い、鹿児島県川内市(現・薩摩川内市)へ疎開。高校卒業まで過ごす。
1948 昭和23年 13歳 川内市立川内北中学校入学。
幼いころから絵が得意だった生賴は、中学生のころ川内市の20 年後の未来を想像した紙芝居を作った。その作品
が評判になり、川内市役所の「川内市の未来を語る会議」の席で発表された。
文章を書くことも好きで、詩や小説を書いていた。作家の佐藤春夫に自作の小説を送ったこともある。
1951 昭和26年 16歳 鹿児島県立川内高等学校入学。
美術部に入部、毎日一人で熱心にデッサンに取り組む姿が見られた。
1954 昭和29年 19歳 東京藝術大学美術学部絵画科入学。油画専攻。
大学は母と長兄からの強い後押しで受験し合格。鹿児島県出身者専用の学生寮「同学舎」で生活する。
同学舎では後に生賴の妻となる山田康子の兄や、テレビドラマ『怪奇大作戦』映画『黒い雨』の脚本家・石堂淑郎氏と知り合う。
1957 昭和32年 22歳 同大学中退。
ある夜ラジオを聴いていた母・千代は生賴の川内市時代の友人の投稿を聞き、その内容から生賴が大学を中退したことを知った。
1960 昭和35年 25歳 銀座で初めての油絵個展を開く。
絵は一枚も売れなかったが気に入って何度も足を運んでくれる人もおり、海外への留学の話も出たと母に手紙で報告している。
1962 昭和37年 27歳 友人の妹、山田康子と結婚。
東急エージェンシーなどをクライアントに新聞広告、雑誌の挿絵、カットの仕事をはじめる。
1966 昭和41年 31歳 講談社創立 60 周年記念『吉川英治全集 三国志』の全面広告が朝日新聞に掲載される。出版社の全面広告は当
時としては画期的であった。
生賴は点描で三国志に登場する6 人の英雄たちを描いた。英雄たちは広い紙面の上でいきいきと輝き、読者に大きなインパクトを与え『吉川英治全集 三国志』は大ヒットする。
1968 昭和43年 33歳 約半年にわたり信州大学を訪れ、導入されたばかりの電子顕微鏡でミクロの世界や人体の内部を実際に見て取材する。その際に行った膨大な数のスケッチを基に学習研究社からの依頼で図鑑『現代の家庭医学』にイラストレーションを提供。
そして3 年後の1971 年に同じく学習研究社から子どもむけに発行された図鑑『学研の図鑑 人のからだ』にもイラストが掲載される。
1971 昭和46年 36歳 早川書房刊、平井和正『ウルフガイ』のカバーイラストレーションを描く。
生賴の描く主人公・犬神明を気に入っていた平井は1975 年の映画化以降、生賴の描いた犬神明のイメージを壊したくないと長い間、映画化や劇画化を断りつづけた。生賴はその後多くの平井作品の装画を担当する。
光文社刊の小説の新聞広告として描いた松本清張をはじめ、作家、政治家の点描による肖像画が評判を呼ぶ。
1972 昭和47年 37歳 早川書房刊、小松左京『復活の日』のカバーイラストレーションを描く。
ミケランジェロの『瀕死の奴隷』を援用した表紙を見た小松は生賴の日本人離れした画力に驚き、「この人(画家)は、本当に日本人か ?」と早川書房のSF 担当者に電話をかけたという。
小松の信頼を得た生賴は、その後多くの小松作品の装画を担当する。後に小松の喜寿の祝いに生賴が描いた肖像画は、小松の遺影にも使われた。
1973 昭和48年 38歳 宮崎県宮崎市に居を構える。
講談社刊〈月刊現代〉の表紙に話題の人物を描く。
東宝映画『日本沈没』(森谷司郎監督作品)のポスターを手掛ける。
1977 昭和52年 42歳 このころ小松左京原作の『復活の日』(1980 年公開)日米合作映画化のため、ハリウッドスタッフ用にストーリー説
明のためのイメージボード25 点が制作される。
1978 昭和53年 43歳 徳間書店刊『決定版スペースSF 映画の本』に『スター・ウォーズ』のイラストレーションを提供。
生賴の描いた『スター ・ウォーズ』の世界観と画力から生賴を評価し、配給の20 世紀フォックスを通じ次回作『スター・ウォーズ / 帝国の逆襲』のポスター制作を後に依頼する。
1980 昭和55年 45歳 『スター・ウォーズ / 帝国の逆襲』が公開される。生賴の描いた国際版ポスターが劇場を飾る。
その活躍は日本中の映画・SFファンの誇りとなり、日本 SF 大会において星雲賞 アート部門を授与される。
徳間書店刊〈SFアドベンチャー〉表紙を描きはじめる。(1987 年 12月まで)
初の画集『生賴範義 イラストレーション』を徳間書店から刊行。
1981 昭和56年 46歳 11月 宮崎市の青木画廊にて「生賴範義油彩展」開催。600 号の油絵の大作『破壊される人間』など展示。
1982 昭和57年 47歳 東映『FUTURE WAR 198X 年』のイメージイラストを担当。
2 冊目の画集となる『生賴範義 198X 年イラスト集』が講談社より刊行される。
1983 昭和58年 48歳 制作に10 年を費やした『破壊される人間』を鹿児島県薩摩川内市の川内歴史資料館に寄贈。
3 冊目の画集『生賴範義 イラストレーションⅡ〈幻魔世界〉』を徳間書店より刊行。
1984 昭和59年 49歳 長らく制作が休止されていた『ゴジラ』が復活。ポスターを描く。
高層ビル群から屹立し咆哮する猛々しいゴジラのポスターが記者会見の席上で発表され、記者たちは一斉に息を飲んだという。
生賴はこの年から平成版ゴジラまで全 13 作品のうち、9 作品の宣伝用ポスターの原画を制作した。
1985 昭和60年 50歳 この年、生賴の仕事は書籍の装丁だけで年間 100 冊を超える。
1986 昭和61年 51歳 たばこの商業広告『HOPE MY WAY』シリーズのイラストレーションを制作。細密な作品の出来に広告代理店の
担当者も手作業で描かれたものだとは信じられなかったという。
1988 昭和63年 53歳 〈SFアドベンチャー〉誌を飾った91 人の女性たちの作品を集めた4 冊目の画集『神話 THE BEAUTIES IN MYTHS』を徳間書店より刊行。
同年、現コーエーテクモゲームス制作の歴史シミュレーションゲーム『水滸伝』や『信長の野望』シリーズのパッケージ画を手がけ、大ヒットを記録する。
1996 平成8年 61歳 依頼された仕事は請けることを身上としていた生賴だったが、60 歳を機にイラストの仕事を減らし油絵の制作に多く
の時間を割くようになる。
2006 平成18年 71歳 日本沈没』が樋口真嗣監督により映画化。ポスターを描く。
北海道、東京、富士山、京都、九州の沈没という日本の究極の終末図が生賴によって再び描かれた。
2011 平成23年 76歳 5月 脳梗塞を発症、以後療養生活がつづく。
2013 平成25年 78歳 11月 宮崎県文化賞 芸術部門受賞。
2014 平成26年 79歳 2月 宮崎市のみやざきアートセンターにて初の大規模な展覧会『生賴範義展 THE ILLUSTRATOR』を開催。
10月 平成26年度文化庁映画賞 映画功労部門受賞。
11月 5 冊目の画集『緑色の宇宙』が玄光社より刊行される。
2015 平成27年   7月 みやざきアートセンターにて『生賴範義展Ⅱ 記憶の回廊』を開催。
10月27日 享年 79 歳にて永眠。
2016 平成28年   4月 第 36 回日本 SF 大賞 功績賞受賞。
7月 第 47 回星雲賞 アート部門受賞
12月 みやざきアートセンターにて『生賴範義展Ⅲ THE LAST ODYSSEY』を開催。同月、宮崎市の文化功績賞を受賞。